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ふる里への想い

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両親も亡くなりお墓を守っていた兄も亡くなり実家も無くなり
お墓も離檀してまさに遠くの存在になってしまった故郷です。
それでも両親の遺骨は新たに熊谷市内のお寺さんに収め毎年息子たちが
墓参りをしていますのでたまには同伴してふる里にも立ち寄る
そんな昨今でしたがコロナ禍で行くこともままなりません。
我が家の長男は芸能関係のコンサートやイベント、そしてアートに関わる
仕事をしていますがコロナの影響を強く受けていました。
それでもまた復活するであろうとその時の準備を頑張っていました。
昨年後半に少し明かりが見え始めてぼちぼちと仕事の契約が入ってきたと
喜んでいたのですが年明けてすぐの「緊急事態宣言」発出、解除、再発と
そのまま今に至っています。
それでも少しずつ仕事の契約が復活し、そのうちの一つ、熊谷にあるデパートで
イベントの開催ができることになりました。
その下準備や打合せのために先月後半のある日熊谷への出張になったと
現地から電話がありました。
その時にデパート側の担当者さんから紹介したいところがあると連れていかれたのが
なんと私の故郷にある国宝に指定されている「聖天山」「歓喜院」でした。
そこの院主様に合わせたいとのことでした。
息子も実は母親がこの地の出身だと言って(*_*)されたとのこと。
(聖天様のことを詳しくは知らなかったので調べました)
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妻沼聖天歓喜院は1197年に斎藤宗光が出家して開創したとのこと。
ご本尊は大聖歓喜天として福運厄除けの神として信仰され本殿の建物は
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日本3大聖天の一つで「3猿」の彫刻が施されているので埼玉日光とも
呼ばれているのだそうです。
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私たちは聖天さまと親しんで子供時代は毎日の遊び場でした。
あまりにも身近で貴重な建物だという認識はなかったのです。
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我が家はその聖天さまの境内にあり祖父の時代まで料亭を営んでいました。
戦前に料亭は閉鎖しましたが母にとっては聖天様は生活の中心でした。
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毎朝草取りをしたり読経や写経にも通い、お遍路にも何度も同行して
母にとって聖天様は大切な心の支えでした。
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上の絵は国宝に指定されたときの記念の切り絵だそうです。
その母も38年前に亡くなり私達兄弟姉妹にとってふる里は遠い存在に。
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息子が歓喜院院主様に我が実家のことをお話したら「よく覚えていますよ、
〇〇さんにはとても良く尽くしていただきました」と母の名もしっかり
覚えていてくださったとか。
息子はその言葉で泣きそうになってしまったと私に電話してきました。
その時の話から同席した人が姉の同級生だとか私の通った高校の話まで
出て嬉しくて仕方なかったと。
それを聞いた私も嬉しくなりすぐに3人の姉たちに報告しました
それぞれ姉たちも「母の名前が出て涙が出てしまう、嬉しいことだね~」と
私へのお土産にと地元名産のおうどんも頂いたようでした。
それから数日して展覧会が開催されたくさんの人たちが来てくださったとか。
コロナ禍で対応も大変だっと思いますが快く引き受けてくださった八木橋さんに
感謝の気持ちで一杯ですね。
5日間の開催も終わり家に戻った息子、電話からも色々な出来事があり心に残る数日だっと
連絡がありました。
母親のふるさと、大好きだった熊谷や聖天山がさらに大事な場所になったと嬉しい言葉。
泊まったホテルは私たち家族が熊谷に行くと必ず泊まるホテルアンバサダー。
会場にも母校の教師だという人がいらっしゃって母親が卒業生だとの話で盛り上がったよと。
部屋からも我が母校の校庭が見えるのですが登下校する生徒さんを見かけたようです。
制服は当時と同じだと思うと話しました。
私たち夫婦もずっと行く予定をしていたのですがコロナの蔓延防止措置の中。
ワクチン接種も間に合わず断念したのでとても残念な思いでいたのです。
後日歓喜院の院主様にはお礼のお手紙を差し上げたのですがコロナ収束したら
懐かしいふる里に立ち寄りたいとしみじみ思わせてくれた出来事でした。

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